本当に本当ですか?
040:君は嘘をつくのが上手な筈なのに、どうして肝心なときに下手な嘘をつくの
蒼穹の双眸が目の前の光景を睨みつける。対象物たちに自覚はなくて、常識はあるんだろうがライの存在には気づいていない。そもそも軍属と言うのは性別に偏りのある組織であるから同性同士の付き合いには鷹揚だ。女傑が一人いるが彼女はかなり例外的だ。国や地域が違っても医療や軍部と言った組織の構成に大枠での相違はあまりないから所属を変えたくらいでは感覚も早々変わってはくれない。だから解放戦線の面々が騎士団の目の前で仲良しこよしでいるのも仕方がないと言えば仕方がない。騎士団に合流することになった解放戦線は四聖剣とそれを束ねる藤堂だ。少数であるからその傾向は顕著だ。そもそもこの団体は解放戦線と名乗っていた時でさえ強固で閉鎖的な仲良しだったらしい。だから新参のライの気配に藤堂と卜部が気づかないのも当然でもある。
問題は二人がじゃれあうように抱擁していることだ。藤堂も卜部も背が高い。藤堂の方は引き締まった体つきであることが判るが卜部の方はひょろりとした印象を受ける。どちらに喧嘩を売るか選べと言われればまず間違いなく卜部が選ばれる。だが卜部は見た目を裏切る喧嘩の強さであり、見た目で戦闘力を考えると痛い目をみる。蒼い艶を持つ黒蒼の短髪。うなじが見えて、痩せているから頸骨の数や突起に触れたりできそうだ。骨格の好さそのままを見せている卜部の体を上から下まで眺めながらライは藤堂と卜部が睦みあうのを眺めていた。抱きあって、キスして、笑いあって。性別で考えれば公には出来ない関係であるから二人とも忍んでいる。それをライは偶然見つけてしまっただけである。仲が良さそうだなぁと思う。記憶を失くしてそれさえも断片的なライの付き合いは表層的であってこういったことにひどく敏感になってしまった。酔っ払った玉城に絡まれる朝比奈さえもうらやましいくらいだ。戦友だ友達だと言ってくれるのは嬉しいが、これで失われた記憶が戻った時、その関係は維持できるだろうかとライはそんな打算にいつも倦んだ。馴染んできたねと言われるたびに笑って嘘をつく。そうかな、僕は君のことなんて知らないし君だって僕のことなんか知らないじゃないか。心中の黒い声がいつも脳裏を埋める。
卜部にも言われた。気が合いそうだなと。だけどね卜部さん、僕があなたに感じるのは友愛なんかじゃなくってもっと熱い――肉欲なんだよ? ほらまた笑って嘘をつく。あなたを抱きたい。でもそんなことはおくびにも出さない。出したら関係が破綻する。ライはいつも何かに怯えている。記憶と言った地盤を持たない楼閣は砂上のそれのように危ういものだ。記憶も好悪も判断基準さえなくして。自分の判断はこれで正しいのかなって自分に訊かれて正しいさって嘘をつく。
だって判らないじゃないか。
僕にはもう何も残ってないんだ、あの血臭と流血と小さな手の断片。
「…、うらべ」
藤堂の短い声。卜部がライの方を向く。その茶水晶に射抜かれるだけで体が燃える。きょろりと小さめの黒眼が動いてライを見下ろす。卜部は丈があるので自然と見下ろす体勢になるのだ。ライは手に持った書類をぴらぴら数えるふりをしながらそこに留まった。自分がいなくなったら彼ら二人はまた睦みあうのだろうかと思うだけで妬けた。藤堂が羨ましい。軍人と言う弁えを持ち、曲げることも呑みこむこともあるがしっかりとした信念があり、ついてきてくれる人がいて、つまり。過去のない軽すぎるライとは比べる次元が違うのだ。同じ土俵に立ってさえいない。ライは横目でちらりと二人をみるが、二人はなんの合図も仕草もなく別れた。藤堂の足取りはしっかりしていて卜部に対する名残惜しさなど感じさせない。向かってくる卜部にライは逃げ出したい脚を貧乏ゆすりのように揺すったり組みかえたりしてこらえた。
「なンか書類不備?」
卜部がライの手元の書類を指して言った。ライはにっこりと笑っていいえ違いますと答える。こんな書類どうでもいいのだ。目録と連絡事項である。点検も検印も済んでいる。卜部が口火を切るきっかけに書類を選んだのは明白だ。ライは挑むように口の端を吊り上げた。
「今の見てたって言ったらどうします? ちからづくで口止めしますか?」
卜部は一瞬鼻白んだような顔をしたが、ガシガシと頭を掻いてため息をついた。
「別にしねェよ。言いふらしたいならそうすりゃあいいだろ、見つかった俺達にも落ち度があンだからな」
もっとも、と卜部がにやりと笑う。
男同士で寝台を共有するくらいで驚くねんねはいねぇだろうけどな
今度はライが眉間にしわを寄せた。鼻までよりそうなそれに卜部が茶化す。柴犬が威嚇してる時みてェな顔してるぞあんた。
ライの中に子供っぽさを指摘された不服と不満と悔しさが満ちた。自然と視線も険しくなる。卜部はそれを面白がるかのようににやにや笑いながら見ている。
「好きになるって直感だからなぁ」
「千葉さんは真っ当だと思いますけど」
「朝比奈は?」
思わず言葉に詰まるのを見て、ほれ見ろと卜部がライの額をばちんと指先で弾いた。
「真っ当かどうかなんて誰にもわかんねェんだよ」
真っ当に好きになるってその時点でお前、打算的な好意じゃねェかよ。世間体を含めて好きになるってェのか、お前さんは。
ライに反論の余地はない。そもそもライが卜部に対して抱く気持ち自体が卜部の指摘そのままだ。気になるなぁから好きだなまでの時間的な長さはあっても性別で好意を忘れる気にはなれなかった。ライは完全に失態を演じている。卜部が好きなのだろう、ただそれに自信がなかった時に藤堂と卜部の抱擁を見てしまって一気に脳が沸騰した。いつも簡単に周りを欺く嘘さえ出てこない。しかも卜部の態度の端々や仕草、言葉からかえりみるに、卜部はライの失態と混乱に気付いている。ライがそれを自覚していることさえも。ライは卜部の前で不用意に裸になっているようなものだ。下拵えも事前準備も心構えもない。攻撃されれば無防備にそれに晒されるだけだ。ぎち、と音がして書類を掴む手に力が入る。しわのよるそれを見た卜部がはぁ、と肩まで落として嘆息した。
「いつも笑顔の嘘つきで優しいライさんはどこ行っちまったんだ?」
「嘘つきってなんですか。僕は嘘なんか」
「本当のことを言わないで誤魔化すのを嘘って言うんだよ」
記憶がねェからってあんたァ周りを軽くあしらいすぎだぜ。
ライの蒼穹の双眸が集束した。見開かれていく蒼を卜部の茶水晶は静かに見ているだけだ。書類の束を落とさないように掴んでいるのが精一杯だった。気を逸らそうと書類を掴む指先にまで不必要に力を入れる。
「でもまァ、嫌いじゃねぇぜ」
「は?」
「肝心な時に嘘を吐けねぇ嘘つきさんはよ」
きょとんとしながらもライの頭の中ではすさまじいスピードで会話を咀嚼している。
「本当にひどい嘘つきはよ、中佐とのこと秘密にするから僕と付き合いませんかくらい言うもんだ」
「それ、嘘つきじゃないですよ。ただの強請りです」
「秘密にするって言って関係が消える方向へ事を運ぶ嘘つきもいるんだよ」
経験があるような口ぶりだ。ライの目がじっと卜部を見上げる。傍へ立っている体を見れば見るほどひょろりとして漂然とした空気が抜けない。卜部が笑って肩をすくめた。
「俺だって真っ当に生きてるわけじゃあねェからな」
嘘くらい吐くぜ? 試すように卜部の目線がライの体を這う。上にある視点をわざわざ下げるように背中を曲げて窺い見るのは小動物的な癇症的なものだった。たとえるなら幼い我儘。ねぇだめ? と訊かれた時によくされる体勢だ。記憶の断片がフラッシュバックした。体をねじるようにひねるように肩を片方だけ下げて下から見上げて。
「どうした、少尉殿?」
「なん」
でもない、は喉の奥へ呑みこまれた。唇を吸われた。不意打ちだったそれにライは無防備すぎた。開いていた歯列から割り込んだ舌が熱く絡む。ぢゅうっと強く吸ってから卜部はあっさり離れて元の体勢に戻る。片側へ重心を預ける、人を小馬鹿にした時の様な体勢。
「女がやったら色っぽい姿勢なんだがな。俺のそれであんたの気が引けたんならいっか?」
軽く笑い飛ばして卜部の方には何のわだかまりもない。ライは卜部の鎖骨のくぼみや痩せて細い腰骨の尖りが隠れた衣服の中を想像して熱くなっていた。不意の口付けに従順だったのはそのまま抱擁に発展したらと言う下心からだ。
「あんたホント素直だな。普段、あれだけ周りをあしらってる嘘つきっぷりはどこ行くんだよ」
卜部の手がライの急所を捕らえた。今度こそライは身動き一つ取れない。書類の束がばさりと落ちた。まとめて書類ばさみで留めてあったので散らかるような惨状は避けられたが確実に書類には折れ目がついただろう。
「どうせ僕のことなんか判らないくせにって顔してるぜ、あんた」
「…だって、事実だ」
自分でも判らないのだ。これだけ派手に地下活動までしているのに顔見知りはおろか関係者さえ名乗り出ない。自分と世界はまったく、何をもってしてもつながっているとは思えなかった。まるで自分だけ違う世界で生きているかのように。
「俺はどっちでもいいぜ。そういうことに罪悪感がねェからな。俺の体を誰がどう使おうが俺の知ったこっちゃねェ。ぶっ壊されんなぁごめんだがな」
「藤堂中佐、とキスしてた」
「熱の発散が必要な体なンだよ、男ってなぁ」
あんたもそうだろ?
今度はライの方から吸いついた。卜部の唇は少し乾いていてぺろりとライが舐め濡らす。卜部の服の胸元あたりにしがみつく。鷲掴まれた不自然なしわが寄る。卜部も拒否せずに口を開けてくる。濡れた舌がいやらしく絡みあう。
「……あー、まずい、なぁ」
「僕下手ですか」
「いや違う、お前さんじゃない。俺の方の問題」
判らないので判らないと言うと卜部の返事は判らなくていいだった。
「俺も流されやすいなーってだけだし」
疑問符だらけのライの顔に卜部は目を逸らして、たはははは、と笑った。
「なァあんたも俺も嘘つきだ。だからさ、今は…――今は俺は中佐が好きだって嘘、吐かせてくれよ」
ふっとライは噴き出して笑った。あははあははあはは、と朗らかな笑い声がこだます。
「卜部さんこそ、肝心な時に嘘つけてないですよ」
「そういう俺は嫌いか?」
「好きだから困るんです」
背骨が軋むほど互いにきつく抱きあった。誰にみられていても構わなかった。得意の嘘で誤魔化せる。妙に自信があった。嘘じゃないから――後ろ指をさされてもいいかもしれないと、ふと思った。
自分さえ持たない僕を好きになってくれた卜部に対してせめてもの。
好きです
肝心な時に気の利いた嘘もなく
好きです
《了》